サークル学ぶよろこび講演
星野信夫
―聖武天皇即位1300年―
巨大な夢を万葉の心から考える
はじめに
・天平時代の2大柱「聖武構想と万葉集」、その底に「共に流れる心」を探る試み
1 強さと優しさを備えた天皇
(1)不幸な子ども時代
・701誕生、同年生まれの光明子と藤原不比等邸で共に育つ、7歳で父文武天皇と死
別、病弱な母宮子とは37歳で初対面、716光明子と結婚、724即位
*光明子は藤原不比等と県犬養橘三千代の娘。聖武天皇の母宮子は異母姉。
(2)目標とした曽祖父、強い天武天皇
☆大君は神にしませば天雲の雷の上に廬せるかも (柿本人麻呂)
・天武天皇が重要視した金光明(最勝王)経
*「この経を読誦信奉すれば困難の時に四天王がその国を守る」と説く護国経典
聖武天皇は「国を守る天皇の責務と国難に対処する強い責任感」を学ぶ
(3)山上憶良(侍講=教師役)に「強さと優しさ」を学ぶ
☆士やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき名は立てずして (憶良の辞世の歌)
2 天平の壮大な理念
(1) 「自然災害、疫病、外圧」という厳しい状況から国と民を守るために「蓮華像世界をこの世に築く」という大願を抱く
・740 河内の知識寺で「盧舎那仏」を拝し、盧舎那仏を教主とする「蓮華像世界」へ
の思いを強め、東国巡幸の中で具体的な構想を練り始める。
*華厳経によると、蓮華像世界では盧舎那仏が宇宙のすみずみまで分け隔てなく輝き
照らし、それぞれの世界では釈迦如来が社会のあり方や人の生き方を説いている。
☆妹に恋ひ吾の松原見渡せば 潮干の潟に田鶴鳴き渡る (聖武天皇)
☆我が背子とふたり見ませばいくばくか この降る雪の嬉しくあらまし(光明皇后)
・東国巡幸の旅で、「都には盧舎那大仏を全国には釈迦如来を本尊とする国分寺を建立
し、この世に蓮華像世界を築く」との構想を固め、詔を発する。
(2)「共生と協働」を説く詔
① 国分寺建立の詔(741、天平13年2月14日) *恭仁京で発する
・国分寺は僧寺と尼寺が一対で建てられた「男女共生の寺」(光明皇后の発案)
・僧寺は「金光明最勝王護国之寺(本尊は釈迦如来)」、尼寺は「法華滅罪之寺」
*法華経は「誰でも(女性でも)仏になれる」と「平等」を説く
②大仏造立の詔(743、天平15) *紫香楽の宮で発する
・動植ことごとく栄える世をつくりたい(共生) =自然との一体感
・天皇一人で造ったのでは意味がない みんなで造ろう(協働)
=みんなで利他行を積み、共に仏となる道に進む(大乗仏教の理念)
=一人ひとりの「平等」が前提 →「万葉の心」に通じる
*社会奉仕活動(利他行)を続ける「行基」の集団が大仏造立に協力
・国・郡などの役人はこの造仏のために、人民の仕事を侵しみだしたり無理に物資
を取り立ててはならない。
*平等の理念はともかく、現実には役人と庶民との間には身分の差・力の差が
あった。上文からは少しでも仏の教えに近づけようとする思いが読み取れる。
3 万葉の心 ⇒ 歌に込められた深い思いが、聖武天皇の理念にも反映されている!
(1)自然への畏敬の念、自然と共に生きる喜び
・古来日本人は、厳しい自然の中で助け合い、美しい自然と共に生きてきた。
厳しい自然を前にして、人はみな無力、みなで助け合い、みな平等
美しい自然に抱かれて、人々は深い安らぎを覚える
そこで育まれてきた心は、共生・協働の理念や万葉の歌に反映されている。
☆岩走る垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも (志貴皇子)
☆東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ (柿本人麻呂)
☆春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ 野を懐み一夜寝にける (山部赤人)
(2)細やかな人間関係、人と共に生きる喜び
・1万年にも及ぶ長い縄文時代、人々は激しく争うこともなく細やかな人間関係をもとに絆を強め日本文化の基層を築いた。 文字は持たなかったが、気に入った言葉や言い回しは歌うようにして伝えあったとも言われている。
☆あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る (額田王)
☆紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻故に我れ恋ひめやも (大海人皇子)
【挽歌、悲しい別れ】
☆我妹子が植えし梅の木見るごとに 心むせつつ涙し流る (大伴旅人)
☆大君の命畏み大あらきの 時にはあらねど雲隠ります (倉橋女王)
【家族の絆】
・天武天皇が草壁以下の6皇子に忠誠と結束を盟約させた際の歌
☆淑き人のよしとよく見てよしと言ひし 吉野よく見よ良き人よく見
・6皇子の一人大津皇子が謀反を疑われ、死罪を免れない状況の中で姉を訪ねる
☆我が背子を大和へやるとさ夜深けて暁露に我が立ち濡れし(大伯皇女=姉)
☆百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ (大津皇子=弟)
☆釈迦如来金口に正に説きたまはく、「等しく衆生を思ふこと羅睺羅のごとし」と。
また、説きたまはく、「愛は子に過ぎたることなし」と~
銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも
*大乗仏教では「仏性は万人にやどる」と説く。万葉の心も仏性の発露か?
☆貧窮問答歌 *長歌に続く反歌
世の中を厭しと恥しと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
【東国の人情、庶民の心】
☆赤駒を山野にはかし捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ (防人の妻の歌)
☆大君の命畏み磯に触り 海原渡る父母を置きて (防人の歌)
☆障へなへぬ命にあれば愛し妹が 手枕離れあやに悲しも (防人の歌)
4 蓮華像世界のその後
(1)全国国分寺の建立効果
・中央の文化(行政、仏教、学問、医術、建築、芸術等)が地方に伝わる
国家の統一、国と地方の関係強化、地方の平準化が進む
(2)理想と現実
・「蓮華像世界」という理想の世界を、現実の人間世界に実現することは難しい。
理想世界の盧舎那仏・釈迦如来は完璧だが、現実世界の聖武天皇や国司郡司は
生身の人間 *747国分寺建立促進の詔(怠ける国司、怒る聖武天皇)
(3)盧舎那大仏と武蔵国分寺の焼失
・仏教界の変化(密教、浄土宗、禅宗等の浸透)が進み、旧来の「鎮護国家仏教」
は力を失うが、仏教の担い手は国家・貴族から武士へ庶民へと大きく広がる。
・東大寺の大仏様は信仰を集め続けたが、その後の戦乱で2度焼かれた。
1180年、平重衡の南都焼討により焼失 1567年、大仏殿の戦いで焼失
・全国の国分寺は国家や諸国の庇護を受けられず、次第に衰退し多くは消滅
1333年、武蔵国分寺も「分倍河原の合戦(鎌倉幕府対新田義貞)」により焼失
5 受け継がれた理念と心
(1)盧舎那大仏と武蔵国分寺の再建
①盧舎那大仏は創建の理念に基づき、寄付(勧進)により再建
・1度目は鎌倉時代の重源が、2度目は江戸時代の公慶が勧進により再建
勧進は「勧進能」などの芸能振興も伴い、「高野聖」は勧進で高野山を支えた
・盧舎那大仏(ヴァイローチャナ)は、真言密教では大日如来(マハー・ヴァイロ
ーチャナ)となり、今も高野山や教王護国寺(東寺)で信仰を集めている。
② 武蔵国分寺は国家の寺から地域・庶民の寺へ
・唯一焼け残った薬師如来像を守る村は「国分寺村」と呼ばれるようになり、江戸
時代中期には薬師如来を本尊とする武蔵国分寺が再建された。
(2)その後の「万葉の心」
①心の種を残す言の葉
☆「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける~花に鳴く鶯、
水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして天地を動かし~たけき武士の心をも慰むるは歌なり」
(古今和歌集仮名序、紀貫之)
*古へも今もかはらぬ世の中に 心の種を残す言の葉 (細川幽斉=藤孝)
☆紫のひともとゆゑに武蔵野の 草はものみなあわれとぞ見る (古今和歌集)
②幕末~明治の苦難の中で
☆あさゆふに民やすかれとおもふ身の こゝろにかゝる異国の船 (孝明天皇)
☆よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ (明治天皇)
☆嗚呼苛酷苛酷と民は啼きより 武蔵野の野辺の烏ならねど
(明治2年の「御門訴事件」犠牲者を悼む、神山平左衛門)
(3)今に生きる天平の理念
・1889(明治22)年、現国分寺市域の10か村に対して「合併し村名は国分寺村と
するように」との命令。名称をめぐる対立を乗り越え、翌年「国分寺建立の詔」発布
と同日の2月14日、近隣有力者立会いのもとに「国分寺村」が発足
武蔵国分寺創建の理念も語られたのではないだろうか。
・天平の理念「共生と協働」は今や各市共通、地方行政の重要テーマ
おわりに
☆幾年の難き時代を乗り越えて 和歌の言葉は我に響きぬ (愛子さま)